母が高校生の頃、津幡の町から山手の自宅までの道をバスで帰っていたそうです。そのバスには運転手さんとは別に、切符をもぎる人が同乗していたと聞きました。ジブリアニメなどにも描かれている光景ですね。タイにはまだ居るそうです。日本では人件費節減・省力化・自動化に伴いこの係の人は姿を消しました。エレベーターにも操作と各フロアの案内をするお姉さんがいましたが姿を消しました。筆耕室という言葉は係の人とともに死語になりました。
レジから係の人が消えていきます。深夜の在庫確認も自動化の技術ができていますので、あの人々もいずれ消えるでしょう。運転手も消えます。店員も消えます。通販の充実は止まりませんから、店そのものも消えていくでしょう。人口減少もこれらの現象を加速します。
いま学生たちに「この仕事がいい!」「この技術がいい!」「これを学べばいい!」と具体的な内容を示せる者がどれほどいるでしょうか。そんな人は昔も居なかったのかもしれませんが、こと現代においては、子らに具体的な道を示せる大人は少ないだろうと感じております。
私たちにとって教え子は我が子同然です。子らに根拠と共に「重要であろう知識・重要であろう考え方」を提示し、しかし押し付けず、選び取ってもらうことが、私たちの役割です。国語算数理科社会は入り口・切り口に過ぎません。学問の本質はヒト・社会・自然に対する深い観察と考察と体系化です。そして生徒や私たちに必要なことは「いまやるべきことを丁寧に選び取ること」「いまやりたい事にも時間を投資すること」この2点です。
勉強に関してはお任せください。効率よく点を取る学習を教えて、時間を余らせます。そして「やらされる勉強」ではなく「学びたい勉強」に対してきちんと時間を投資できるように環境を整え、道が見つかり自らの足で進み始めるまで指導しながら、待ちます。多くの生徒は、点数が上がり、成績が上がり、そうして作り上げた可能性と思考力で、自らの志望校や進路を選び取って行きます。
タイトルにあった「1時間の価値」についてですが、そもそもなぜ自動化や省力化で仕事が減っていくのでしょうか。自動化したから仕事が減ったのではないのです。自動化や省力化によって、人間が1時間のうちにできることが多様化複雑化したからなのです。
例えば竈での炊飯を想像してください。いまはボタン一つです。炊飯の間、火加減などを全く気にせずに次の作業が行えます。炊飯はほんの一例です。
50年前に比べて、1時間あればできることの数が増えた。これは人が1時間働いたときに作り出す価値が増えたことを指します。それはサービスや財の価格を押し下げるので、同時に人件費が暗黙のうちに相対的に上昇するべきであることを意味します。人々が気づかないうちに、1時間の価値=1時間の人件費は、高まり続けているのです。
にもかかわらず給与は変わらない。同じ給与のまま、人々は昔より複雑な物事を短時間に多くこなすことを要求されるようになった。同じ1時間の仕事でも、仕事の中身が複雑化し量も増えたわけです。
これについていけない人は、これについていける人に置き換えられていきます。そしてあふれた人から順に給与の安い仕事に降りていきます。これが仕事が無いという現象と給与が安いという現象の原因であろうと思われます。
お子さんに「勉強しろ」と言っていませんか?無駄であるどころか、逆効果ですよ。そもそもこのような時代の幕開けに、強制されて嫌々やるような勉強が役に立つのでしょうか。それよりも「学びたい、学ぼう」と思えることや、「やってみよう、知ってみよう、確かめてみよう、試してみよう」と思えることの方が重要ではないでしょうか。
ぜひ一度ご相談ください。私どもは勧誘の不快さを知っています。だからわざわざ問い合わせてくださった皆様に、入ゼミを促すことはありません。
はたして一新ゼミはこの複雑多様化の波に乗る事ができるのか?