本記事では読みやすさの為に、中学の国語力を[A]、希望の国語力(後述)を[B]として記述します。
▼結論から書きます。
[B]「言われてないことや、皆が見過ごすことを見つけて言語化する」
[B]「欲しい物が手中に無いときは、いま手中にある物を言語化する」
▼ここから記事です。
中学校の国語力[A]は「本文に書かれている内容を正確に把握し、問いに対し、多くの人が返答するであろう内容を答えること」です。
一方で、今日お話しする「希望の国語力[B]」は推測を含む場合が多く、「中学の国語力[A]」の理念に反することがあります。
端的に書き過ぎて的外れに思われるかもしれませんが、中学の国語教育[A]は、うつ傾向の原因の一つかもしれないと、私はわずかに疑っています。とはいえ、文章を正確に読み取る事はあまりにも重要なので、この問題の解決は国語科の範囲内では簡単ではありません。この記事は「現段階での記録」という意味があるので書きますが、問題提起も解決も意図していません。進展があれば更改します。
▼以下、問題文のような何か
ある生徒が、やりたい習い事を親が許可してくれない、といいます。聞けば、まあまあ高価な道具類を買う必要のある習い事です。親からは「お金が無いから」という理由で却下されているとのこと。
その生徒は「高校のクラスの友達らは割と自由に習い事をさせてもらっている。自分もいま学びたいことを学びたい。成績も悪くないはずだ。その習い事を今やりたい。なぜできないのだろう。家に帰るのも憂鬱で、つらい。」と言うのです。
▼記事再開
さて、このとき、中学の国語力[A]でこの場面を説明すると、[A]「この生徒の親は、金銭的観点から、この生徒の習い事の希望を叶えてくれない親である」という解釈になります。
一方、私が申し述べたい「希望の国語力[B]」では、[B]「この生徒の親は、子に屋根と食事を与え、制服を整え、限られた金銭的資源をやりくりし、今日も高校に行かせてくれている親である」という解釈になります。
[A]は本文に従った結果、「ない」に着目した記述になっています。
[B]は推測を含むものの、「ある」に着目した記述になっています。
中学の国語における一般的な問いでは[A]を前提とした回答を想定します。
▼ちょっと小難しい話
中学の国語力[A]の考え方では、本文の内容次第ですが、憂鬱な気分を助長する場合があります。この、娯楽の多い時代、事実や真実は大抵の場合、人間を憂鬱な気分にさせるからです。つべ、ネトフリ、アマプラに限らず、X(旧twitter)、ネトゲ、tiktok、BeReal、ネットの向こうに実物の人間が居る娯楽が、現代では多種多様に存在します。しかもこれら「プラットフォーマー」らは、超優秀な連中が少数精鋭で日々改善に取り組んでおり、行動経済学や心理学等を駆使して「人間を飽きさせない」工夫に日夜しのぎを削っています。大人の私でさえ気が付いたら3時間吸われていますから、況や生徒らにおいてをや、というところ。ネットの「楽しさ」から我に返って勉強する、なんてことをいつもやってたら、心は疲弊しますし、学校にはそりゃあ行きたくならないですよ。ここで[A]による現実パンチを食らうわけです。「スマホいじってたら時間なくなるよ」これが[A]パンチ。正論パンチってやつですね。([B]はここには書けません。生徒が読んだときに誤解するかもしれないからです。ごめんなさい。)
“Time is Money”と”Money is Time”は異なると思いませんか?
結果的に私は、スマホからYoutubeのアプリを強制削除(初期化して無効化して非表示化)し、X(旧Twitter)アプリは削除しブラウザでもログアウトし、マンガアプリも削除とログアウト、ネトゲは全部垢消しアンインストール、tiktokもインスタもアプリ削除&ブラウザからログアウト、アマプラ解約、ディズニープラスもログアウトし、時間デトックスを9割達成。残る1割はニュースチェックです。さああなたもEliminate wasting time!
▼まとめ
また長々と説明しましたが、当然ながらこの話は、中学の国語科を非難しているわけではありません。ここで指摘したいことがあるとすれば、『 [B]の考え方を身につける教科や時間が、学校教育の中には少なく感じる 』という点です。そして[B]の考え方を子に教えられる親が、はたして今どれくらいいるのでしょうか。
というわけで、テストでは[A]を書きますが、同時に脳内で[B]を生成し、[A]と[B]を平等に扱うべきです。[B]の方が「見えないものを見ている」のですから、より高度な国語力であるとも思えます。
原子分子やイオンや、無限級数がそうであるように、勉強は「見えないものを視る」力を養うものです。
[A]を訓練しつつも、[B]を強く育んであげたいものです。
尚この文章は金沢市内でご活躍の或る先生から着想を得ました私なりの[B]です。先生の国語力を以てすればこの文章の本当の意味にお気づきになられることでしょう。同じ轍を踏まぬよう日々反省と脚踏実地(jiǎo tà dhí dì)(ジャオターシーディ、きゃくとうじっち)です。