学歴という単語は、英語では
educational background
academic history
などと表現されます。
educational は「 教育に関する 」を、
background は「 背景、生育環境、予備知識 」を、
academic は「 大学の、学究的な、学術的な、学問の、伝統にとらわれた 」を、
history は「 歴史、変遷、来歴、沿革 」を指します。
知歴、と表現しないところがひとつ面白いところです。そんな話になればいいなと、下記に書き進めます。
私の父母はacademiaの要素を持たず、経営者でもありません。私は背景が乏しかったのだと後になってから理解しました。父母の性質は、時代や、祖父母の教育方針や生き方に由来があると思われます。これを読んでくださっている保護者の皆様、50年後には、私も含め、子を持つ全ての親たちは子孫らのhistoryになっています、よね? 思うに、よりよい祖父母になれるよう自己を改良し続ける過程こそ、親子それぞれにとって、幸せが続く道かなと考えています。
両親から勉強をしろと言われ、そして勉強が嫌いだった私は、教員として職員室に身を置き、その後開塾に至りました。金大医学部生らと働くようになって、如何に生育環境が子らに影響を与えるかを痛感いたしました。
どう痛かったのか一言で表せば「知らないということは恐ろしいことだ」となります。例えば私の場合、「怒る」という感情が制御可能なものだということを知りませんでした。父も母も人間として素直な人たちで、怒った時には怒るものでしたから、怒りが制御可能だと認知し実感するまで、だいぶ年月を要しました。おそらくですが、「怒り」が制御可能だと実感している両親に育てられた子は、「怒り」を制御できる確率が高いのではないでしょうか。
勉強もこれに近く、そもそも「勉強」のやり方を知っているかどうか(時間や感情を制御できるかどうか)が、親子それぞれよりよく生きる上で、大切です。言い換えれば「学に関する技能」でしょうか、これは幸福観、時間管理、感情制御を含むため、学校以外の場にて形成される部分が大きいです。結局、学校は一人一人に対する働きかけが十分ではありませんから、家庭で親が何を教えたかや、子の出会う人々がどのように物事を処理しているか見て知り学ぶことは、その子の人生と運命を大きく変えます。
私たちは、全く知らない物事を尋ねたり、検索したりすることはできません。キーワードも分かりませんし、何より、知らないのですから探そうとも思いません。これが、学の無い事の恐ろしさです。知らないのですから、足りないということさえ分からないまま生きています。
マクドナルドの後ろの座席で喋っている女子高生たちから「知らないからこそ不足に気付かないのだ、すなわち知の不足は、足るを知るという意味では幸福への道筋なのでは」という反論が聞こ縺医※縺阪∪縺帙sæ–‡å—化ã’。しかしその幸福は、災害や病気などの障害に弱く、比較で幸福をとらえる人間という生き物にとっては心もとないものです。やはり、知も学も必要ではないでしょうか。
さて学ある人はむしろ、自己がどうやってその学を得たのかに案外注目せず、学を得ることの大変さや重要さをかえって知らないままにいる、そんなことがあるように思います。「自分が大丈夫だったから子も大丈夫だろう」という見込みもありそうで、そしてそれは大抵正解なのでしょうけれど、こと「機会」に関しては与えられるものならば与えておいて損はないはずです。
塾で学んだというhistoryが、よいbackgroundとなるように、今日も生徒らと笑って過ごしています。蛇足ですが、笑って過ごすことと学の関連に際し、最近感心した知を一つ紹介させていただきます。
学校に行けなくなる子らの親に共通していることとして、「家の中での親の表情が暗い」という事項を、ある専門家の方が示しておられました。これが知です。
そりゃそうですね、親から勉強しろと言われても、子供視点で考えれば当然です。なぜなら、親の指示に従った結果、親のような顔つきで生きていくことになるのですから、子は親の言うことを聞くはずがありません。こういったこともあり、私は塾で、塾なのだけれど、生徒らと楽しく話す時間も持つようにしています。これが学です。
最近は様々な経験をしている人々の意見に簡単にアクセスできて、本当に豊かな時代だなと感じます。